日本人は働き者だ。この日本人の勤勉さによって日本という国は一流のサービスを提供し、住みやすく、便利な国であることは確かだ。外国人が観光で日本を訪れて、日本を絶賛するのはよくあることだ。しかし、その日本という国は世界の中でも特異な国だ。世界的には働きたくない人が増えている中に合って、日本人は未だに働くことに人生に意味を見出そうとしている。多くの日本人にとって労働とは人生なのだ。アメリカでは労働力が不足して、企業は労働力を確保するために賃金を上げている中で、日本は労働力があり余っているゆえに企業も賃金を上げる必要がない、つまり日本は働きたい人で溢れているのだ。仕事こそが人生の意味という考えが変わらない限り、日本の賃金は上がらないかもしれない。
「過労死」、つまり過剰に仕事をし、それが原因で死亡すること。この言葉の意味は日本人にしか分からないだろう。日本の仕事に対する姿勢は極端といって過言ではない。仕事のために家族や友達、そして自分の命まで犠牲にするのだ。日本でしか生活したことのない日本人にとってこれは常識かもしれないが、私のように海外で暮らす日本人にとって、日本で起きていることは異常そのものだ。そもそも人生の中での優先順位のつけ方を間違っているのである。日本人である以前に人間である以上、たいていの人にとって一番大事なものは命だろう。命があってこそ他の全てものは存在を許される。しかしながら、この優先順位を間違えると「過労死」に繋がるわけだ。つまり、仕事を命よりも大事なものとみなしてしまうのだ。仕事というものが命があるゆえに存在できているという事実を見失っているのである。
命を仕事に捧げる精神は遠い昔からの伝統のように思える。日本は昔、「お家」というもの奉公する文化があった。侍の映画を見たことがある人ならきっと想像するのは難しくないだろう。「お家」というのは格式のある家族の名前である。その家族の頭首が、将軍であったり、大名、殿だったりするわけだ。彼らに使える武士たちは文字通り彼らに命をささげていた。戦があれば頭首やその家族を守るために命をかけたのだ。また、その「お家」そのもの、つまり将軍や大名の家族たちは、自分たちの「お家」を守ることこそ、人々の平和と幸せに欠かせないものであると信じていたのである。つまり、「お家」というのは、人そのものではなく、その家族の称号のようなものである。例えば、ある「お家」が存続するためには、その家族の血を注ぐ誰かが存在していればいいわけである。また、もし仮に血を注ぐものがいなくなったとしても、養子としてその苗字を継げば「お家」は存続できる。つまり、武士たちは「お家」という漠然とした実体のないものに命をかけて仕えていたのである。
この風習は現在も日本に根強く存在している。日本人は「会社」という実体のない者のために命をかけて仕えているのである。例えば、SONYという会社を例にとって考えてみよう。SONYと聞けば誰もが知っている日本の電機メーカーだろう。このSONYという名前が「お家」なのである。SONYの社長や重役たちはもちろん変わることもあれば、前代の社長との血の繋がりもない。それでもSONYは存続し続ける、いわば実体のない名前のようなものである。人々はそれに命を削ってまで仕えるのだ。SONYという「お家」に奉公してるわけである。また、社長や重役たちもSONYというブランド、名前の存在こそが人々の幸せにつながると考えている。
「過労死」とは、日本の古代から続く、日本人の習慣なのだと私は考えている。日本では「過労死」を悪としてニュースで大々的に放送しているが、日本という文化がこの「過労死」を生み出しているのは間違いないといえる。この根本的な文化や習慣を変えない限り、日本から「過労死」が絶えることはないのかもしれない。